自分の見えている色は、隣の人が見えている色と同じ色なのだろうか?

先に触れておくと、実際の症例として色が入れ替わってしまうという話が現実に存在するという話を聞いたことがあるが、それについて触れたものではなく、単に思考の題材として扱っているだけであり、特定の症例について言及したものではないことを注記しておく。


昨日のニュースで「青信号にミツバチが寄り付くのはミツバチには青の波長が心地いい色に見えるから」みたいなことを言ってたのでふと思った話なのだが、
人間についても、隣の人と見えてる色が全く同じである保証は実はないのではないか?と。
つまり、自分から見ると青く見えてる空が隣の人には緑色に見えていて、自分が緑色に見えている木々が隣の人には赤く見えていたりすることはないだろうか?ということ。


奇妙に感じる話かもしれないが、後天的に色が入れ替わったというわけではなく、もし生まれつき空が緑で木々が赤に染まった世界に生まれていて、その空の色のことを「青」と呼び木々の色のことを「緑」と呼ぶように覚えたのならば、その人にとって緑は青で赤は緑となる世界ができてしまうのではないか?他の人には言葉の上では全く同じ世界を表現することになり、仮に絵の具でそれを表現しようにも緑に見える「青」という絵の具をとって空を描き赤に見える「緑」という絵の具で木々を描いたならば、それは別の人には「青い空」「緑の木々」のごく自然な世界が見えていることになるのではないか?


人が色に名前をつける以前から物理的な波長としての光が存在し、それが色を作り、その色の持つ物理的な性質までを含め色の名前を名づけたのならば、「青」を示す波長が緑色に見え、「緑」を示す波長が赤色に見えることもあるのではないだろうか?「赤は暖色で膨張色だし警戒色だ」というけれど、暖色という性質が暖かいものの示す色がたまたま赤だったことから来ているのならば、火の色が青に見えるならば青は暖色になってしまうし、膨張するという性質は光の回折・干渉の性質から来るものなのだから、「赤」の波長が青に感じられるのならば「青い色は膨張する」ということになってしまうのではないか?「赤信号は止まれ」とかいうようなものもあてにはならない。「色の名前」は具体的なものとの対応で社会的に与えられるものだと考えられるからだ。仮に赤→青、黄色→紫、青→赤というように見えていても、その青い色に対して「赤」という名前が与えられ、紫に対して「黄」、赤に対して「青」が与えられるのだから、その人は青くみえる信号に対して「赤信号での停止」を行うだろう。


よく考えてみれば、機械は物理的な波長の性質のみを読み取っているわけで、そういう機械に認知機能があれば自分達と同じような色の世界を作り上げいるとは限らないだろう。もしかしたら彼らには400nm前後の「赤」の波長が青っぽく見えているかもしれない。しかしそれを確認する手段を持っていないのだ。自分のいう青が隣の人の赤で、隣の人のいう赤が自分の青かもしれない。それでも自分達は色彩の美しさを味わいそれを共有することができるのだから不思議なものである。