「ゲーム的」な現実解釈?

最近読んでる東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』とは全く関係のない個人的な話。
# 追記:見た感じ全く関係なさそうなトラックバックが飛んできてたので削除しました。

そもそもの発端

かなり前置きはあるのですが「裏切ったやつは永久放置」(過去にストーカーまがいの監視行動を取られたことがありその方とは星の間ほどの距離を置いています)といったことに対して「何そのゲームみたいな考え方、人間の世界はそんなことはしない」と見下したように叱られたのでメモ(もちろん逃げ腰)。
…その文脈で使われている「人間的な社会」は社会を裏切った犯罪者は永久に犯罪者として取り扱われますよね?
機械的な対処を行うことが「ゲーム的」であり否定されるべきものであるならば、法を厳格に処置することは「ゲーム的」であり否定されるべきものなのか?理論に基づいて厳密に物事を決定していくことはときに残酷な結果をもたらすけどそれを「非人間的」と一刀両断することは不可能じゃないのか。

ゲーム以前の社会は人間的?

「ゲーム的である」ということを「ゲームの扱っている題材のような現実の捉え方だ」と捉えると、逆にゲームの扱っている「残酷な社会」というのはきわめてモデル化された戦争状態や「剣と魔法」の世界(もちろんそれ以外も存在するけどこれまたきわめてモデル化されたイメージ)であったりする。それのモデルは現在ではなく、過去の世界、または過去の伝説・伝承にあるのではないのか?現代の大人がもてはやす「文学」も、そのように扱うならば「ゲーム的」と扱えてしまうのではないのか?

軽々しく「ゲーム的」なんて使っちゃいけないと思う

機械的に物事を取り扱う、一定の規則に基づいて物事を取り扱おうとする態度を「ゲーム的」と切り捨てるようなら、そもそも科学の姿勢自体「ゲーム的」で否定されるべきとなってしまう。
そもそも「ゲーム」と「現実」で対立させること自体に思考の偏りがある。「ルールに基づく判定を行いそれに沿って行動をすること」がゲームの基本的な考え方であり(まぁそういうものだわな:定義であるかどうかは急ぎなので調べてない)、それは上記のとおり科学の考え方と一致し、現実的な考え方とも一致する。「ゲーム」と「現実」を対立させようとするのは、「ゲーム」というメディアそのものに対する嫌悪から生じている考え方ではないのか?まぁそうであるからといって何もできるわけではないが。そうすると「ゲーム的」であるということは批判にすらなってないということになるか。


例外を認めざるを得ないときは認めるけど、基本的に例外のないようにルールを作るのが「現実」なのでは?「ゲーム」でも「現実」でも、例外があったらそれは「バグ」で悪用されてしまうわけだし(→初期のライブドアはその点がメディアにもてはやされたんじゃないですか)。一定の行動基準に沿って厳格に動く、その姿勢を「ゲーム的」である、とするならば、それはきわめて意味のわからないことだなぁ、と思った。
というか、そもそも親何をもって「ゲーム的」であると言っているのだろう。それは冒頭の本を読めば解決するのかな(違)。まぁ、そこまで深い思索もなしにゲームやりすぎだって言いたいだけかも知れないね。確かにやりすぎだ。反省(駄目)。

追記:「ゲームの本質」ではなく「ゲームをやる人間の行動」に着目して「ゲーム的」とすると

これは次回に回す。
メモ程度にキーワードを書いておくと、「ゲーム的」という言葉で言おうとしていることは、「ゲーム的思考」によってプレイヤーが「パターン化された破壊行動」を起こす、ということではないのか?という話。