思考の続き

自分の行動に対して他人が抱く心理的な違和感の解決に、物理的な問題解決のアプローチは果たして適切なのだろうか?


とものすごく抽象的に書いてみたが、要するに上に書いた今年の目標の再設定の背景要因にある今朝の出来事に対する自分のアプローチが果たして適切であるかどうかの問。
今朝の出来事というのは、自分が「周囲に対して感謝していない」「遊んでばかりで何も考えていない」という指摘を親に受けたことについて。それに対する正しい反応は、「周囲に対して感謝をする」「遊んでばかりではなくちゃんと後先考えて行動する」といった否定命題の解決によってなされるべきなのだけど、その否定命題が抽象的な以上、どのようなアプローチを取るのが最適解なのだろうね、と考えてしまった。「人間性のかけらもない」俺乙。


結局自分の出した結論は

  • 「周囲の与えるものに対する感謝の問題」の解決→自分でその与えられているものの供給手段を作ってしまえばよい、不可能ならその不可能性を知ることで鍵括弧つきの「感謝」によって表現されているものが理解できるだろう
  • 「遊んでばかりではなくちゃんと後先考えて行動する」ということを翻訳すると→遊んでるように見せない、「遊びが主体になっている」と判断されたら終わり→つまり遊んでいるという事実を覆い隠すようなより大きな事実を作ってしまえばよい

という物理的問題解決のアプローチになったわけだけど、これをmixiに上げてみて、自分より圧倒的に「人間的側面」を強調して生きてるオケの方々の目に晒されてみて改めて考え直してみたんだけど、なんかものすごく違和感の残る解決方法だよね、と。自分はその「人間的」な側面は物理的要素に担保されてはじめて成立しうる要因だから物理的要素における問題を解決することが最善の解決だと考えたわけだけど、「それよりもお前が人を怒らせたであろうその行動を見直せよ」っていう大前提を欠いているという点でこの解決方法そのものが否定されそうな気がしてならない。単に解決のベクトルの違いなんだろうか?でも逆に「お前が人を怒らせたであろうその行動」の内容を考える上で、怒ったというある種恣意的な要素が入っていて、その行動や怒った原因についての具体的な言及がない以上、もっと高次の概念(→つまり今回は自分はこれを「物理的問題を解決していないことに対する嫌悪感」と解釈)があるけどそれを口にできないから「判断できないお前が悪い」(→ある意味「空気読め」に通じる考え方ですね)といっているのではないかと思ってしまう。


でもこうやって書いてみると自分が悪いように思ってしまうのは自分が社会性を失ってないことの表れか。「放蕩息子のパラドックス」。