今日の分その1

頭痛で家を出なかったわけですが今日の分。

ローマ人の物語〈24〉賢帝の世紀〈上〉 (新潮文庫)

ローマ人の物語〈24〉賢帝の世紀〈上〉 (新潮文庫)

このまましばらくは(といっても明日まで)「ローマ人の物語」継続して今手元にある単行本10巻相当まで読み終える。
というわけでトライアヌス帝の時代の話。後世から「五賢帝時代」と言われる時代のその2人目にあたるわけですが、当時の歴史家からもほとんど批判的なことが聞こえないというだけあって、清々しいくらい完璧超人。おおよそ「ローマ帝国のいい部分」を完全にきれいになぞってできたというような皇帝。カエサルアウグストゥスのようにラディカルな改革を行ったわけではないにしろ、成熟した帝国を運営するのにこれほど適した人間はそういなかったのではないかというくらいだ。


例によって気になった部分を引用。

このローマ人が人材登用にコネを重要視したのは、彼らの現実主義的性向のあらわれの一つであったとさえ思う。コネとは、責任をもってある人物を推薦することだ。人格才能ともに優れた人が推薦するならば、人格も才能も優れた人が推薦される可能性も高くなる。もちろん、この場合でも常にリスクはあった。しかし、客観的な試験ならば、無能や悪質な行政官を産むリスクは回避できるであろうか。
塩野七生ローマ人の物語 24 賢帝の世紀[上]』p.249)

コネということばは悪いイメージが先行してしまいがちだが、本来的にはこういう形が理想であるのだと思う。結局世の中の一番重要な部分はコネで回っているわけで、それは無能な人に大事なコミュニティの価値を損なわせないためだ。機会の平等が与えられないという意味では確かに「不平等」で、「世の中は不平等である」というのは結局のところ、真に機会の平等を担保しようとするとそのシステムの維持にコストがかかりコミュニティの価値の低下を招いてしまう、というところに由来するのだろう。本当にコミュニティが守るべきものなのであれば、そのコミュニティを率いている人が正しく次の世代を導くだろうし、そうでなければそのコミュニティに価値はないのだろう。
「機会の平等」ということでいえば、この「完璧超人」トライアヌスローマ帝国初の属州出身の皇帝であり、アウグストゥスからネロまでのユリウス・クラウディウス朝の時代は同じ家系の者しか皇帝をやることはなかったし、その後しばらくはイタリア出身の元老院階級の者のみにしか皇帝への道は開かれていなかった。本当に機会が不平等だったのならばトライアヌスにはチャンスは回ってこなかったのではないか。時代の流れのお膳立てがあったにしろ、本当にコミュニティが守るべきものであるのならば、真に能力のある人は何らかの形で道が開かれるのだろう(ドミティアヌスの時代にゲルマニア属州での反乱が起こっていなければトライアヌスのキャリアも変わってきていただろう、という話もあるし)。